拾穂文庫第三分室撮影地案内

東京都




千代田区


東京駅 丸の内駅舎

【拾穂文庫符号】Tk_Ek**
【所在地】東京都千代田区丸の内1丁目(
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【設計】辰野金吾 【竣工】1914(大正3)年 【指定】重要文化財
【サイト】東京ステーションホテル(休業中)

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長さ約300メートルに及ぶこの長大な建物は東京の顔だ、と私は思う。東京駅丸の内駅舎は「日本最大のレンガ建築」だ。人々が忙しく行き交う東京駅、ふと立ち止まって眺めてみれば、「洋館」としての姿が見えてくるはず。設計者は日本近代建築界の大御所・辰野金吾

建築された当初は3階建てで、南北には大ドーム屋根があった。1945年3月、東京大空襲で被災し、崩壊したドーム屋根や3階部分を取り払って応急的に復旧した姿のまま、戦後60年あまり建っていた。バブル期の1980年代には赤レンガ駅舎を取り壊して高層ビルを建設しようとする計画も持ち上がったそうだ。明治〜昭和戦前期に建てられた多くの建築物が失われたこのバブル期は、これらを「近代遺産」として見直し守ろうとする考え方が危機意識とともに高まった時期であり、この駅舎の取り壊しも反対運動にあって守られた。近代遺産はただ「残っている」のではなく、多くの人の努力によって「残されている」のだと言うことができる。

2007年5月、丸の内駅舎を建設当初の姿に復旧する工事が開始された。完成は2011年の予定。

日比谷公園

【拾穂文庫符号】Tk_Hb**の一部

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日比谷公会堂

【拾穂文庫符号】Tk_Hb**の一部
【所在地】 東京都千代田区日比谷公園(
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【設計】佐藤功一 【竣工】1929(昭和4)年
【サイト】日比谷公会堂

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法務省旧本館

【拾穂文庫符号】Tk_Ho**
【所在地】東京都千代田区霞が関1丁目(
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【設計】ヘルマン・エンデ、ヴィルヘルム・ベックマン、河合浩蔵 【竣工】1895(明治28)年 【指定】重要文化財
【サイト】法務省

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警視庁の向かいに建つ、堂々たる赤レンガ建築。「お雇い外国人」であるエンデとベックマン(ともにドイツ人)が基本設計を行った。ドイツ・ネオバロック様式、だそうな。実施設計・工事監理を行った河合浩蔵は当時司法省技師。

1923年の関東大震災ではほとんど被害を受けなかったが、これは煉瓦の壁に鉄材で補強していたためという。しかし東京大空襲では壁面と床だけを残して焼失。屋根をスレートから瓦にするなどの改修工事が行われたのち、1950年から法務省本館として利用された。

1994年、建築史家である村松貞次郎・堀内正昭両氏の監修のもと復元工事が完成、重要文化財指定を受けた。現在も建物は現役。「中央合同庁舎六号館赤煉瓦棟」というのが「役所の建物」としての正式名称らしい。法務総合研究所や法務図書館、法務史料展示室などがあり、このうち法務史料展示室は見学できる。

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国会議事堂

【拾穂文庫符号】Tk_Db**
【所在地】東京都千代田区永田町1丁目(
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【設計】大蔵省臨時議院建築局 【竣工】1936(昭和11)年
【サイト】「議事堂竣功70周年」参議院ウェブサイト内)

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ニュースやドラマでもおなじみ、立法の府、権力の中枢。この建築物ができるまでには、日本近代建築界の大御所・辰野金吾先生が大暴走する一編のドラマがあった。

1907年、石造議事堂の建設計画が動き出す(それまでは木造の仮議事堂だった)。議事堂建築に情熱を燃やす辰野は、設計者に内定していた妻木頼黄を蹴落とした上、自ら審査委員長を務めるコンペに自分の作を提出しようとする大人げなさ。さすがに自作を出すことはやめたものの、コンペに寄せられた若手(渡辺福三)の優秀作品に“大いに手を加えて”設計しようとした矢先の1919年、夢半ばにして死去してしまう。享年66。

その後、辰野の弟子筋にあたる大蔵省の建築技師たち(矢橋賢吾、大熊喜邦、吉武東里、武田五一、佐野利器ら)が、渡辺福三案をもとに設計を完成させた。1920年に着工し、17年の歳月をかけて1936年11月竣工。その年、新議事堂の庭先では2・26事件が勃発している。立派な議事堂はできたが、議会政治は機能を低下させていく時代だったという皮肉。

それにしても、正面から見たときに背後を塞ぐ無粋なビル(山王パークタワー)はなんとかならんものかと、景観政策の不在を憂いてみたりする。

東京国立近代美術館工芸館 (旧 近衛師団司令部庁舎)

【拾穂文庫符号】Tk_Ko**
【所在地】 東京都千代田区北の丸公園(
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【設計】田村鎮 【竣工】1910(明治43)年3月 【指定】重要文化財
【サイト】東京国立近代美術館工芸館

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1977年、東京国立美術館の分館として開館。

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上智大学

【拾穂文庫符号】Tk_Jo**
【所在地】東京都千代田区紀尾井町
【サイト】
上智大学

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中央区


築地本願寺

【拾穂文庫符号】Tk_Zh**
【所在地】東京都中央区築地3丁目(
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【設計】伊東忠太 【竣工】1934(昭和9)年
【サイト】築地本願寺(浄土真宗本願寺派本願寺築地別院)

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東京の真ん中に出現するインド。正式名称は「浄土真宗本願寺派 本願寺築地別院」。有名人の葬儀がよく行われることでも知られる。ワイドショーで見かけて「なんじゃこりゃ」と思った人もいるはず。

もともと江戸時代に起源を発する西本願寺の江戸(東京)における別院だったのだが、関東大震災で伽藍を焼失した。このため西本願寺第22世門主・大谷光瑞(1876〜1948)が施主となり、友人である東京帝大工学部教授の伊東忠太が設計した。

光瑞は中央アジア・インドに仏蹟調査のための「大谷探検隊」を送り込んだり、海外布教に尽力したりといったスケールの大きな人物(もっとも、巨額の負債も抱えた)。そんな光瑞と伊東の出会いは、伊東がアジア横断旅行中に大谷探検隊の橘瑞超と出会ったのが契機になったのだとか。話がでかすぎます。そりゃ、仏法の源流はインドだからと、こういう壮大な発想の建築もできるのでしょう。伊東が設計した光瑞の神戸の別荘「二楽荘」(1932年焼失)も、各国の様式をちりばめた豪華でスゴイ建築として有名だったとか。


台東区


上野公園

【拾穂文庫符号】Tk_Ue**の一部
【所在地】東京都台東区上野公園(
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奥に見えるのは表慶館のドーム屋根

国際子ども図書館 (旧 帝国図書館)

【拾穂文庫符号】Tk_Kt**
【所在地】東京都台東区上野公園(
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【竣工】1906(明治39)年 【指定】東京都選定歴史的建造物
【サイト】国立国会図書館 国際子ども図書館

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国立国会図書館の分館の一つ。正式名称は「国立国会図書館 国際子ども図書館」。

ルネサンス様式のこの建物は、戦前には唯一の国立図書館であった「帝国図書館」。「上野図書館」の名で親しまれ、多くの文豪や学者が通った。現在の建物は1906年に第一期工事完成、1927〜29年に第二期工事が行われ鉄筋コンクリートに改修された。

戦後の1947年に「国立図書館」と改称、1949年国立国会図書館に統合されて「国立国会図書館支部上野図書館」となり、特別コレクションの一部を公開していた。その後児童図書の専門館・ナショナルセンターとして「子ども図書館」に改組し、2000年に部分開館、2002年に全面開館することになった。これに際して大規模な改修工事を行い、歴史的な外装・内装の保全・修復を行いながら耐震・空調・増築工事を行ったのだそうだ。

黒田記念館

【拾穂文庫符号】Tk_Ue**の一部
【所在地】東京都台東区上野公園(
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【サイト】黒田記念館

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「国際子ども図書館」の隣にある、画家・黒田清輝の記念館。

旧 岩崎邸庭園

【拾穂文庫符号】Tk_Iw**
【所在地】東京都台東区池之端1丁目(
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【設計】ジョサイア・コンドル 【竣工】1896(明治29)年 【指定】国重要文化財

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三菱財閥の総帥・岩崎久弥(1865〜1955)の本邸。洋館・撞球室・和館・庭園からなる。洋館は1896年、岩崎久弥がいわば貴賓館として建設したもので、普段の生活は和館で行っていたらしい。

1945年、GHQにより接収され、1947年に財閥解体により国有財産に編入されたが、GHQが継続して使用していた。「本郷ハウス」「岩崎ハウス」と呼ばれたこの建物に拠点をおいたのが諜報機関「キャノン機関」で、占領下の裏面史にも顔を出す。1953年日本政府に返還され、1961年に洋館・撞球室が、1969年に和館大広間がそれぞれ重要文化財に指定されるものの、司法研修所などの建設のために敷地の半ばは削られ、和館の大半は取り壊された。2001年東京都に移管し、都立公園として開放された。

「豪邸」を体現するこの建物は、近代建築好き、昭和史好き、財閥令嬢もの・メイドさんものアニメ好きまで、多様な人に人気。

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文京区


湯島聖堂

【拾穂文庫符号】Tk_Yu**
【所在地】東京都文京区湯島1丁目

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新宿区


早稲田大学

【拾穂文庫符号】Tk_Wa**
【所在地】東京都新宿区西早稲田1丁目(
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【サイト】早稲田大学

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都の西北にある大学として有名。現在早稲田大学の施設はあちこちにあるので、ここで扱うのは「西早稲田キャンパス」。

1882年、大隈重信(1838〜1922)が創立した東京専門学校が前身。1902年「早稲田大学」と改称。1920年には大学令に基づく大学になった(「大学令」は法制度上の「大学」を定める法令で1919年に施行。それまで早稲田などの「大学」を称する私立学校の法的地位は「専門学校」(旧制)だった)

早稲田大学 大隈記念講堂

【竣工】1927(昭和2)年
【設計】佐藤功一、内藤多仲、佐藤武夫ら

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早稲田大学のシンボル。通称「大隈講堂」。ストックホルム市庁舎(1923年竣工)の影響を受けているというゴシック様式の建築物。

1922年創立者大隈が死去したため、大隈を記念する講堂の建設が発起された。紆余曲折を経て1926年着工。設計者は早稲田の建築学科の教授たち。演劇にも使えるようにとのことで、日本で初の音響設計がなされたとか。塔の上には大小4つの鐘があり、1日4回メロディを奏でるのだそうな。

大隈は「人生125歳説」を唱えていた。人は本来125歳の寿命を持っていて、適度な摂生をすれば125歳まで生きられる、という考えだそうだ(大隈の享年は満年齢で83歳だった)。このため早稲田では125は特別な数字として扱われている。大隈講堂の塔の高さは125尺(約38m)。創立125周年(2007年)記念事業の一環として大隈講堂では内部の改修が行われた。

早稲田大学 坪内博士記念演劇博物館

【設計】今井兼次 【竣工】1928(昭和3)年
【サイト】
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館

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「坪内博士」とは坪内逍遥(1859〜1935)のこと。逍遥は評論『小説神髄』によって小説は「人情」を描写すべきだ(心理的写実主義)と論じて江戸時代から続いていた戯作文学(勧善懲悪とか、滑稽とか、ご都合主義的展開とか)を批判し、日本における「近代文学」の確立に大きく貢献したと評価される。『南総里見八犬伝』好きには、八犬士を「仁義八行の化物にて、決して人間とはいひ難かり」と喝破した先生として有名。

逍遥は『桐一葉』などの戯曲も書き、「文芸協会」(歌舞伎や大衆的な芝居ではなく西洋近代的で芸術的な「演劇」を目指す集団。今日考えられるような「劇団」のハシリと考えていいのかな)に関わるなど、日本の近代演劇にも大いに寄与した。そんな坪内逍遥の名を冠した施設があるのは、彼が長らく早稲田大学の教授を務めたから。この博物館は坪内の古稀とシェイクスピア全集40巻翻訳完成の偉業を記念して建てられた。古今東西の演劇・映画に関する資料があり、一般公開されている。建物はシェイクスピアの時代(16世紀)のロンドンの劇場・フォーチュン座を模しており、実際に芝居が行われるらしい。


北区


旧 古河庭園

【拾穂文庫符号】Tk_Fk**
【所在地】東京都北区西ヶ原1丁目
 洋館・西洋庭園: 【設計者】ジョサイア・コンドル
 日本庭園: 【設計者】小川治兵衛
【文化財指定】国名勝

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「古河」(ふるかわ)は、古河市兵衛が創始した旧古河財閥のこと(中心企業である古河鉱業は明治時代に足尾鉱毒事件を引き起こしたことで、悪い意味で有名。なお、古河財閥の流れを汲む現在の古河グループを構成する企業には、古河金属工業・古河電気工業・富士通・横浜ゴムなどがある)。

この場所にはもともと政治家・陸奥宗光(1844〜1897)の邸宅があった。陸奥の次男・潤吉が古河市兵衛の養子となり、この土地は古河家の所有となる。3代目・古河虎之助の手により、1917(大正6)年に現在の洋館と庭園(和風・洋風)がつくられた。

戦後GHQにより接収され、のちに国有となる。地元の要望もあって東京都が無償で借り受け、1956年から一般公開されている。洋風庭園はバラの名所として知られる。

庭園部分は東京都が管理しているが、洋館部分は財団法人大谷美術館(ホテルニューオータニ創業者・大谷米太郎に関連する)が管理している。洋館内部の見学には大谷美術館へハガキによる事前申し込みが必要。内部は和洋折衷で、一階部分が洋式・二階部分が和式らしい。

【ほかの素材サイトさん】
泉獺さん《泉獺の水辺の棲家》

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