拾穂文庫第三分室撮影地案内

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伊東忠太 (1867〜1954)

日本建築史の創始者とも言われる。また、平安神宮・明治神宮などを建て神社建築の権威として君臨した。神社建築についてはきわめて保守的だったという反面、湯島聖堂(中国式建築)・一橋大学の校舎群(中世の教会よろしく軒先に怪獣がいる)・京都の祇園閣(大倉財閥創始者・大倉喜八郎の別荘の展望台。祇園祭の鉾の形)などの建築物を設計した。法隆寺の柱とパルテノン神殿のエンタシスを結びつけた(ただしその根拠は明らかではない)とか、アジア横断の旅に出て中国の雲崗石窟を「発見」した(国際的に紹介した)とかの事跡を残す。一方で国粋主義的、一方で自由奔放。建築史界でも評価の難しい人らしい。

河合浩蔵 (1856〜1934)

江戸生まれ。工部大学校造家学科でコンドルに建築を学ぶ。工部省に入り、ドイツに留学。帰国後司法省技師となった際に司法省庁舎の建設に関わった。1897年に退官し神戸に転居、神戸地方裁判所庁舎や海岸ビル(旧・三井物産神戸支店)、海岸ビルヂング(旧・日濠会館)を手がけ、関西建築界の長老的存在となった。

辰野金吾 (1854〜1919)

日本近代建築界の大御所。西洋近代的な意味での建築の専門教育を受けたはじめての日本人の一人であり、工部大学校造家学科(東大工学部建築学科の前身)を首席で卒業してイギリスに留学。帰国後は東京帝大教授として後進を育てた。辰野の建築デザインは当時のイギリス・ヴィクトリア朝の建築スタイルであるヴィクトリア様式(ゴシックやルネサンスなど過去の様式を折衷した、装飾の多い建築物)、その中でもクイーンアン様式(18世紀初頭のアン女王時代に流行した優雅で軽快な様式を模したもの)の影響を受けているのだとか。辰野が日本各地に建てた、赤レンガの壁に花崗岩の白い帯を装飾的に配した建築のスタイルは「辰野式」と呼ばれる。

辰野は、「辰野堅固」と渾名されるほど筋を通すカタブツだったという。帝都東京に聳える中央駅と日本銀行、国会議事堂を自らの手で建設することを宿願とし、その二つまでを実現させたのだから、やはり大変な人だ。しかし、最後に残った国会議事堂の建設の際はかなり大人気ないこともしている。まさに執念のなせるわざ。

村松貞次郎 (1924〜1997)

建築史家。東京大学生産技術研究所教授、定年退官後は法政大学教授や明治村館長を務めた。「建築探偵」藤森照信氏の師匠。

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